晋江文学城
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2、キノの旅 ...

  •   第一話 「人の痛みが分かる国」
      ―I See You.―

      緑の海の中に、茶色の線が延びていた。
      それは土を簡単に固めただけの道で、西へ向かってまっすぐ走っていた。辺《あた》り一面には膝《ひざ》ほどの高さの草が、風の通り抜けるさまを示すように、緩やかに波打っていた。近くにも遠くにも、木は一本も見えない。
      道の真ん中を、一台のモトラド (注?二輪車。空を飛ばないものだけを指す)が走っていた。後部にあるキャリアには、薄汚《うすよご》れた鞄《かばん》がくくりつけられている。
      モトラドはエンジン音を響《ひび》かせながら、かなりのスピードで走っているが、たまに左右にぐらつく。そのたびに運転手はあわててハンドルを切り、体を傾け、進路の修正をした。
      運転手の体躯《たいく》は細い。黒いジャケットを着て、腰を太いベルトで締めていた。ベルトにはポーチがいくつかついて、後ろにはハンド?パースエイダー(注?パースエイダーは銃器。この場合は拳銃《けんじゅう》)のホルスターをつけている。その中には自動作動式パースエイダーが一丁《いっちょう》、グリップを上にして入っていた。
      右腿《みぎもも》にはもう一丁、リヴォルバータイプのハンド?パースエイダーがホルスターに収まっている。抜け落ちないように、ハンマーがホルスターから短く伸びた紐《ひも》を噛《か》んでいた。
      帽子は飛行帽のような、前だけに鍔《つば》がついたもので、防寒用に耳を覆《おお》うたれがついていた。たれはゴーグルのバンドで押さえつけられ、あまりが風でバタバタと暴れている。代わりに帽子本体が風圧ですっ飛んでいくのを防いでいた。
      ゴーグルの下の表情は若い。目の大きな、整った精悍《せいかん》な顔つきだが、今はどことなく疲れた顔をしていた。
      モトラドが運転手に言った。
      「まったくもって、キノが何を考えているのか分からないよ。食べる物があるんだから、食べればいいのに」
      キノと呼ばれた運転手はこう言い返した。
      「せっかく町が見えるのに、携帯《けいたい》食料なんて食べられないよ」
      彼らの進む道の先には、町の外壁がぼんやり見えていた。
      「それに保存食は最後に食べるための物だ」
      その瞬間《しゅんかん》、前輪が路面のでこぼこにはじかれてバランスを崩しかけ、再びモトラドがぐらついた。キノがあわてて直す。
      「うわあ!」
      「ごめん、エルメス」
      キノはさすがに少し速度を落とした。エルメスと呼ばれたモトラドがぼやく。
      「まったく。それにあの国に食べ物があるとはかぎらないよ。人間が一人もいなかったら、どうするつもり?」
      「そうだな、その時は……」
      「その時は?」
      「その時さ」

      外壁の前までたどり着いて、キノはエルメスを停止させた。高い城壁の前には堀があり、跳ね上げ式の橋があった。
      キノはその橋の手前にある小さな建物に目をつけ、エルメスからおりようとした。途端《とたん》にエルメスがぐらついて、キノは自分がサイドスタンドを出していないことに気がついた。エルメスを支えようとして力が入らず、そのまま左側に倒れた。
      「ああ、なんてこったい! キノともあろうお方が立ちゴケをするとは。はい、さっさと起こす起こす!」
      横になったエルメスが心底|呆《あき》れた様子《ようす》で言う。キノはエルメスをすぐに起こそうとしたが、その動きが途中で止まってしまった。
      「ちょいと?」
      エルメスが聞く。キノは蚊《か》の鳴くような声で答えた。
      「お腹がすいて、力が入らない……」
      「だから昼に食べればよかったのに……。いいかいキノ、何度も言うけれどモトラドの運転はスポーツなんだ。自転車ほどではないにしろ、ただ走っているだけでかなりのエネルギーを消耗する。やがて自分でも分からないうちに力が入らなくなって、さらに頭も回らなくなる。そうなると、普段はできるとっさの対応ができなくなるんだよ。その結果簡単なミスが事故につながり……。ちょっと? キノ、聞いてる?」

      その建物の中には誰《だれ》もいなかった。
      代わりに大きな自動販売機のような機械が置いてあった。それはキノが入ると同時に作動し、いくつかの簡単な質問をして、あっという間に入国の許可を出した。橋がおりてきた。
      「ずいぶんと早かったね」
      戻ってきたキノに、サイドスタンドで立っているエルメスが聞いた。
      「変だな」
      キノはエルメスに跨《またが》ると、エンジンをかけた。
      「何がさ?」
      「あの中に人間が一人もいなかった。機械だけ」
      キノはエルメスを発進させ、橋を渡っていく。
      「町に入っても、誰《だれ》も見かけなかったりして」
      エルメスがおどけた調子で言った。
      そしてそのとおりになった。

      「食べた?」
      「食べた」
      キノは満足そうに答えながら、建物の前に止めたエルメスに戻ってきた。
      「誰か、いた?」
      「誰も」
      キノは短くそう言って、エルメスに跨《またが》った。そして辺《あた》りを見回した。
      太い舗装《ほそう》道路が一本あり、その両脇《りょうわき》に平屋の建物がいくつも建っていた。今キノが出てきた建物には『レストラン』と看板が出ていた。
      通りには広い歩道もあり、街灯と街路樹が規則的に並んでいた。少し先に十字路があって、信号機もある。道はまっすぐ進んでいる。その先は、森だ。緑しか見えない。
      後ろには先ほどくぐってきた城壁が見えて、その左右の先はぼやけて見えなかった。ここから見るだけでも、この町は大変に広く、そしてひたすら真っ平らだということが分かる。
      「誰もいないで料理が出てきたの?」
      「ああ。全《すべ》て機械がやってくれた。おいしかった」
      「変な町」

      それより少し前、キノとエルメスが町に入ると、そこには誰一人いなかった。町は立派《りっぱ》で、通りもよく整備されている。しかし人間の姿がどこにも見えない。
      すると一台の車が走ってきて、キノとエルメスの前で止まった。ドアが開いて、その中から誰も出てこなかった。代わりにまた機械が出てきて、入国歓迎の挨拶《あいさつ》をひとしきり述べた後、町の地図を差し出してきた。キノが受け取ると、ドアを閉めながら車は去っていった。
      キノはとりあえず、何か食堂がないか探した。やがて近くにレストランを見つけ、一人で入っていったがやはり誰もいなかった。しかし店内は広く、きれいに掃除されていた。
      キノを出迎えたのは車椅子《くるまいす》にコンピューターを載せて腕をつけたような機械で、そいつが注文を取った。キノはスパゲッティによく似た食べ物と、何の肉か分からないステーキと、見たこともない色のフルーツを頼んだ。しばらくするとやはり機械によって料理が運ばれて、キノはそれを食べた。機械にお金を払った。
      猛烈に安かった。
      そして、機械に見送られて店を出た。

      キノは近くにあった案内板で、エルメスの燃料を補給できるところを探し、走ってそこまで行った。相変わらず誰《だれ》も見かけない。途中で走っている車を見つけて追いついてみたら、無人の清掃車だった。誰もいない燃料ステーションで、キノはエルメスに燃料を入れた。ただ同然の値段だった。
      今度はホテルを探す。そして行ってみると、そこには誰もいなかった。
      豪奢《ごうしゃ》なホテルは外も中もきれいに掃除され、ホールの大理石は輝いていた。フロントには機械が鎮座《ちんざ》し、全《すべ》ての仕事をテキパキとこなしていく。値段はやはり、安かった。
      キノはエルメスを押しながら部屋に入った。今までキノが見たことがない、とてつもなく豪華《ごうか》な部屋だった。キノは案内役の機械に、本当にこの部屋でいいのか、ランクを間違えていないのか、ボクは王様ではないけどそのことを知っているのか、後で大金を請求されても絶対に払えないが了承《りょうしょう》してくれるのか、何度も何度も確認した。
      「びんぼーしょー」
      エルメスがぼそっと言った。
      キノは、意味なく広いバスルームでシャワーを浴びて、下着と肌着を香えた。自分で服を洗おうとして、ホテルに洗濯サービスがあることに気がつき、頼んでみた。やはり機械が取りに釆て、明日《あす》の朝にはできあがると言って去っていった。
      キノとエルメスは、もらった地図を絨毯《じゅうたん》の上に最大に広げて見た。
      今いるホテルは、入ってきた町の入り口からすぐ近くの、『東ゲート?ショッピング街』と書かれたエリアにある。円形の町は広く、先ほどキノ達が走ったのはほんの端《はし》っこだけにすぎなかった。
      町の中央部には『中枢《ちゅうすう》?政治エリア』と書かれた円形のエリアがあり、薄い赤で塗られていた。南にはかなり大きな湖が水色で書いてあった。他《ほか》には茶色に塗られた、『工場、研究所』エリアが町の北のはずれにあった。
      そして、それら以外は全て、薄緑色《うすみどりいろ》で塗られた『居住エリア』だった。それは町の面積の半分以上になる。
      「人が住んでるんじゃん」
      「これだけの機械を作って、それらが全てきちんと作動しているんだ。それは誰かがいるだろう。少なくとも、この前みたいに後一人しか残っていない、ってことはないね」
      「じゃあ、どうして誰も見かけないと思う?」
      「そうだな、考えられる原因は……、たとえば宗教的な何かで外出できないとか、休日とか、昼寝の時間とか。あるいは、この辺《へん》には住んでないだけかもしれない」
      「すると……、居住エリア?」
      「たぶん」
      「よし! 行ってみよう! キノ」
      エルメスが興奮《こうふん》して大声を上げたが、キノは首を横に振りながら、
      「いいや、もう今日はだめだ。今から行ったら日が沈むまでに戻ってこれないよ。町中とはいえ、夜は走りたくない。それに」
      「それに?」
      「眠い。ボクは寝る」
      「はあ? いつもならまだ起きてる時間だよ」
      エルメスがそう言った時には、キノはホルスターからパースエイダーを抜いて、それとジャケットを手に持ち、ふらふらとベッドに向かっていた。
      「確かにそうなんだけれど……。ボクはね、エルメス、きれいなベッドがあると無性《むしょう》に横になりたくなるんだ。同時に眠くなる……」
      それだけ言うとキノは、ジャケットを広いベッドの縁《ふち》に掛け、パースエイダーを枕《まくら》の下に敷いた。そしてばふっとふかふかの布団《ふとん》に倒れ込んで、しあわせー、と小さな声で言ったかと思うと、すぐに寝てしまった。
      「びんぼーしょー」
      エルメスがぼそっと言った。

      翌朝、キノは夜明けと同時に起きた。
      部屋の荷物受けに、昨日《きのう》頼んだ洗濯物が入っていた。全《すべ》て新品同様になっていた。
      キノは二丁《にちょう》のハンド?パースエイダーの整備を始めた。
      後ろ腰につける自動式の一丁、キノはこれを『森の人』と呼ぶ。二二LR弾を使う、細いシルエットのパースエイダーだ。弾丸《だんがん》の破壊力は少ないが、長いバレルに適度の重さがあり、命中《めいちゅう》精度がいい。
      キノは『森の人』の弾倉《だんそう》から弾丸を出して、別の弾倉に詰《つ》め直して装填《そうてん》した。
      もう一丁の腿《もも》に吊《つ》っているパースエイダー、通称『カノン』は、単手《たんしゅ》動作式のリヴォルバーだ。単手動作式とは、一発|撃《う》つごとにハンマーを手で上げる必要のあるシステムのことで、引き金を引くだけで撃てるのはダブルアクションと呼ばれる。
      『カノン』は、薬莢《やっきょう》を使わない。火薬《かやく》と弾丸が直接シリンダーに詰《つ》まっている。したがって再《さい》装填するためには、いちいち火薬と弾丸と□□《らいかん》を手で詰める必要がある。□□は小さな火薬入りのキャップのことで、シリンダーのおしりにつけて、ハンマーがこれを叩《たた》いて火薬に引火させる。
      キノは『カノン』のシリンダーを空《から》の物と交換して、何度も抜き撃《う》ちの練習をした。
      その後シャワーを浴びた。
      ロビー近くのレストランに行くと、キノ一人のためだけに、バッフェスタイルの食事がテーブルにずらりと用意されていた。
      機械がフライパンを用意して、どんなオムレツでも作りますよ、と言った。
      キノはとりあえず、食事代が宿泊料に入っているか、しっかりと確認した。
      それから一日分食いだめをするように食べると、部屋に戻ってきた。満腹のあまりしばらく休んだ。
      そして太陽もだいぶ上がった頃《ころ》、キノはエルメスを叩《たた》いて起こした。荷物を全《すべ》てエルメスに積み込み、一応《いちおう》ホテルをチェックアウトした。そして地図を見ながら、『居住エリア』へ向かった。

      『居住エリア』は、ほとんど森だった。太い木々が茂り、小川がいくつも流れている。鳥の鳴き声が響《ひび》き、適度にしめった空気はさわやかだった。
      舗装《ほそう》されていない細い道を、キノとエルメスは走った。
      そして、ところどころに家はあった。全て様式が同じ、平屋の広い家で、まるで森の中に隠《かく》されるように建っていた。隣家《りんか》までの距離は相当《そうとう》離れていた。
      キノとエルメスはしばらく、誰《だれ》かと会えるかと森の中の道を走った。そして、誰にも会えなかった。
      キノは家が見える位置でエルメスを止めてみた。廃屋《はいおく》には必ず何かうすら寒い雰囲気《ふんいき》があるが、ここにはそれがなかった。他《ほか》の国で見かけるのと同じように、人の住んでいる暖かみが感じられる家だった。
      しばらく見ていたが、人の姿は見えなかった。あまりその場にいても失礼なので、キノはエルメスを発進させた。
      そして、結局|誰《だれ》一人の姿を見かけることもなく、町の中心、『中枢《ちゅうすう》?政治エリア』に出てしまった。
      森はビルになり、道は舗装されて広くなる。そして、相変わらず誰も見えなかった。動いている車を追いかけてみると、またしても無人《むじん》清掃車だった。
      キノとエルメスは、高いビルの一つに入った。エレベーターで最上階まで上がると、全周《ぜんしゅう》見渡せる展望室があった。
      キノとエルメスは、きれいに掃除された、そして誰もいない展望室から町を眺《なが》めた。遠くに城壁が薄く見えて、地図のとおりに緑が広がっていた。
      隣《となり》のビルの中にも、人間の姿はない。いろいろな形状の機械がせっせと掃除をしているだけだった。
      キノは狙撃《そげき》用のスコープを荷物から取り出した。倍率《ばいりつ》を変えながら、森の中の家を覗《のぞ》き見していった。
      「ホントはあまり感心できないけどね」
      エルメスがつぶやいた。
      しばらくして、
      「見つけたよ。人だ」
      キノがスコープから目を離さずに言った。
      「ホント? ほんとに?」
      エルメスが大声を出した。
      「ああ、家の前に一人。普通の男の人だ。何か運動をしている。……離れた別の家にも一人。中年の女性だ。庭で……、何をしてるんだろう……。あ、家に入っちゃった。別の家には、電気がついてる部屋もある」
      キノはそこで覗《のぞ》きを止《や》めて、スコープを荷物に戻した。
      「言ったとおりだろ。人はいるんだ」
      「うん。さっきもそんな雰囲気《ふんいき》あったしね。それにしても、なんで一人も見かけないんだろうね?」
      エルメスの質問に、キノは展望室のベンチに座りながら、
      「それが分からない。初めはボク達旅人が珍しいか、怖いのかと思った。でも」
      「でも?」
      「それなら仲のいい住人同士で会って、楽しく過ごしたっていいだろ。この国には、彼《かれ》ら同士で会っている形跡もまったくない。出かけてる人もいない。まるで全員が家に閉じこもってるみたいだ」
      キノは、もう一度窓の外を見た。清潔でよく整った町並み。自然あふれる森の中の居住エリア。町としての機能は、今まで見てきた中では一番|優《すぐ》れていた。
      「なんでだろう?」
      キノがつぶやいた。
      それからキノとエルメスは、『工場?研究所』エリアまで走って、完全自動|制御《せいぎょ》の工場を見学した。懇切《こんせつ》|丁寧《ていねい》に説明してくれたガイドさんは、やはり機械だった。
      キノはその機械に、なぜこの国の人間を一人も見かけないのか訊《たず》ねたが、答えは返ってこなかった。
      夕方、辺《あた》りが暗くなる前に、キノとエルメスは昨晩《さくばん》泊まったホテルに戻ってきた。別のホテルを探してもよかったが、朝食がおいしかったとのキノの要望で、わざわざ町を横断して東ゲートまで戻ってきた。
      その間、誰《だれ》一人として見かけることはなかった。

      次の日の朝、キノは朝食を、やはり食いだめした。
      エルメスの燃料を補給し、携帯《けいたい》食料を買い込むと、西に向けて町中を突っ切るように走り始めた。真西のゲートから出国するつもりだった。
      早朝の森の中に、エルメスのエンジン音が響《ひび》きわたった。キノはあまり居住エリアで騒音をたてたくなかったが、こればかりは仕方がなかった。なるべくエンジンを回さないようにゆっくり走っていった。
      森の中になだらかな丘があって、キノはその頂上でエンジンを切った。坂道をそのまま下っていった。
      キノは家が見えるたびに、誰か見えないかとさっと覗《のぞ》いてみるが、誰《だれ》も見えない。しばらくして坂をおりきり、すこし惰性《だせい》で走って、エルメスは止まった。
      キノはエルメスのエンジンをかけようとした。その時、かちゃかちゃと人工の音が聞こえ、キノは辺《あた》りを見回した。
      道から少し離れたところに、家の庭らしく整理された草が生えている。そのそばで、一人の男がしゃがんで、小さな機械をいじっていた。
      男は機械の修理に集中して、キノにもエルメスにも気がついていなかった。エルメスがささやき声で、
      「おお。こんな近くで目撃《もくげき》された、初めての人間」
      まるで珍獣《ちんじゅう》でも発見したかのように言った。
      キノはエルメスを押しながら、こっそりと近づいた。そして、男に声をかけた。
      「おはようございます」
      「うわあぁ!」
      男が跳ね上がって驚《おどろ》いた。キノとエルメスに振り向く。三十歳ほどの、黒縁《くろぶち》の眼鏡《めがね》をかけた男だった。彼の顔には、まるで幽霊《ゆうれい》でも見たような驚愕《きょうがく》の表情が浮かんでいた。そして言った。
      「な、ななななななななななななななあ、なな……」
      男は完全に、ろれつが回っていなかった。
      「大丈夫《だいじょうぶ》ですか? すいません驚かしてしまって」
      キノが言った。
      「だだだだだ、だあだだぇれだだ……。いいいいついつつついうつ‥…」
      男の言葉は意味をなしていなかった。エルメスが、
      「キノ、言葉が違うんじゃない?彼はこれできちんと自己|紹介《しょうかい》をしているんだ。『エレダダ?イイツイ』さんかな?」
      「いや、そんなはずはないと思うけど……」
      「ききき君達は……」
      男がなんとかそれだけ言うと、エルメスが、
      「ありゃ? ホントだ」
      「きき君達、私の思っていることが分からないのか?」
      男がキノとエルメスを指さしながら、いきなりそう叫んだ。
      「はあ?」
      エルメスが正直な返事を返した。キノは首を傾《かし》げた。
      すると男は、パニック状態から急激な回復をみせた。表情がすっ、と和らいでいき、普通の顔をあっという間に通り越して、とうとう嬉《うれ》しくてたまらないといった顔になった。そして確認をするように、大声で聞いた。
      「君達! 僕が何を思っているのか分からないのかい?」
      「分かりません。何をおっしゃっているかは分かりますが」
      キノは冷静に言った。
      それを聞いた男は、興奮《こうふん》しきった様子《ようす》で、まるで喜びのあまり狂死《きょうし》しそうな勢いで、たたみかけるように言った。
      「そうだろう! 僕にも君達の思いは『聞こえ』ない! ……ああ、なんてこったい! なんてこったい! 君達旅の人かい? そうだよな! そうだろうな! いいいいい、一緒にお茶でもどうだい! ひ、ひょっとしてもう出発かい?頼むよ!」
      「まだ出発は延ばせますけれど……。よろしかったら、この国ではどうして人が表に出てこないのか教えてもらえますか?」
      キノの質問に男は大きく頷《うなず》きながら走り寄ってきて、大声で叫んだ。
      「ああもちろんさ! 全部話してあげるよ!」

      森の中の細い道を少し行くと、男の家があった。
      キノとエルメスは、明るくて広い部屋に案内された。しゃれた造りの木のテーブルとイス。湾曲《わんきょく》している大きな窓の向こうには、きれいに手入れをされた森の中の庭が広がっている。鮮やかな花や、ハーブらしい草がいくつも並んでいた。
      家には他《ほか》に誰《だれ》もいなかった。誰かがいる気配もなかった。
      キノはコートを脱いでイスに座った。エルメスはその脇に、センタースタンドで立っていた。
      「はい、どうぞ」
      男がマグカップをテーブルに置いた。
      「庭で取れた草で作ったお茶さ。お口に合うか分からないけれど、この国ではよく飲まれているんだ」
      キノはお茶の香りをかいだ。
      「面白い香りです。なんていうお茶ですか?」
      「ドクダミ茶っていう」
      それを聞いたエルメスが、思わず叫んだ。
      「ドク?毒が入っているの? キノ、飲んじゃだめだよ」
      キノはエルメスのような無札な言い方はしなかったが、すぐに飲むことはしなかった。キノはマグカップをのぞき込んで、それから男に確認するように聞いた。
      「毒、のお茶なんですか?初めての人が飲んでも大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
      すると男はくすくすと笑いながら、
      「君達は本当に旅人だなあ。あ、ごめんよ笑って。からかっているわけじゃないんだ。ドクダミっていうのは、毒のあるって意味じゃない。毒を矯《た》める、止めるって意味だよ。……ははは、そうだよなあ、普通|毒《どく》ナントカ茶なんて初めて聞いたら変なふうに思うよな。それに……、なんとい……て‥…」
      最後は言葉になっていなかった。話しながら彼の表情は笑い顔から、またしても普通の顔を飛び越え泣き顔へと変化して、そしてとうとう声を出しながら泣き出してしまった。
      キノとエルメスは一体《いったい》何が起こったのか分からず、しばらく泣く男を見ていた。
      彼はぼろぼろ涙を落としながら、時たま鼻をすすりながら、ゆっくりと喋《しゃべ》り出した。
      「他《ほか》の人と……、こうやって会話を交わすのは……、何年ぶりになるだろう……。十年かな、いやもっとかもしれない……」
      しばらくして、キノが言った。
      「お話、お願いできますか?」
      男は眼鏡《めがね》を外して涙を拭《ふ》いた。鼻をかんだ。そして何度も頷《うなず》きながら、
      「ああいいとも、もちろんだ。今から説明するよ。なぜこの国の人間がお互いに顔を合わせないのか」
      男は最後の涙を拭いた。そして眼鏡をかけて、キノの顔を見た。ゆっくりと息を吐いて、そして話し始めた。
      「そうだね……、簡単に言ってしまうと、ここは人の痛みが分かる国なんだよ。だから、顔を合わせないのさ……。いいや……、合わせられないんだ」
      「人の痛みが分かる、ですか?」
      「何、それ?」
      男は少しだけお茶を飲んだ。
      「君達も、昔《むかし》親から言われたことはないかい?人の痛みが分かる人間になりなさいって。そうしたら相手のいやがること、相手を傷つけることをしなくなる。もしくはこう思ったことはないかい?他人の考えが分かれば、それはきっと便利で素晴らしいことだって……」
      「ある! あるよ! ここに来る時もキノは、まったく……」
      男の問いかけに、エルメスが飛びつくように答えた。キノに発言の機会を与えない素早さだった。
      「悪かったよ、エルメス」
      キノが淡々《たんたん》とした口調で、エルメスの発言にかぶさるように言った。
      「この国の人間も、真剣にそう思った。昔からこの国では機械が仕事をほとんどやってしまい、人間は楽に生活できた。食べ物も豊富で、とても豊かで安全な国だった。そうすると人々は暇《ひま》を持て余してしまい、頭脳を使ういろいろなことに挑戦するようになった。新しい公式を発見したり、ひたすら科学的追求をしたり、文学や音楽を創《つく》ったりね。そしてある時、人間の脳を研究していた医者グループが、ある画期的な発見をしてしまった……。その発見とは、人間の脳の使っていないところを上手《うま》く開発すれば、人間同士の思いを直接伝え合うことができる、というものだった」
      「思いを直接伝える?」
      キノが怪訝《けげん》そうな顔で聞いた。エルメスも、
      「どういうこと?」
      男は話を続けた。
      「たとえば僕が、頭の中で『今日《こんにち》は』と思う。そうすると近くにいる人にその挨拶《あいさつ》が伝わる。こんな単純なことじゃなくても、僕が何か悲しくなった時、近くにいる人にその悲しみが直に伝わる。その人は僕の悲しみが理解できて、僕に優しくしたり、解決方法を一緒に考えたりできる。または言葉のできない赤ちゃんの痛みや気持ちよさを、その母親が感じることができる。俗っぽい言い方をすれば、テレパシーってやつだ」
      「なるほど」「はーん」
      キノとエルメスが同時に相づちを打った。
      「国中の人が、それは素晴らしい発見だと褒《ほ》め称《たた》えた。それによって人間はお互いに心の底を伝え合うことができる。そしてもっとお互いを分かり合える。自分達は今までの、ノイズだらけの、しかもきちんと伝わっているか絶対に確認し得ない言語によるコミュニケーションを、古くさい方法にすることができるんだ! ……みんなそう信じた。そして全《すべ》ての人間にその能力を与えようと、簡単に脳を開発できる方法を探り、薬が完成した。それはもう、あっという間にね。それから、全ての国民がそれを飲んだ」
      「全員が?」
      エルメスがすかさず聞いた。
      「全員がさ。みんながみんなと同じ高みに立ちたかったんだ。進化したかったんだよ。取り残されたくなかったんだ。そして、確かにある意味《いみ》僕達は進化した……」
      「それで、どうなりました?」
      キノが思わず身を乗り出した。男は少しだけ悲しげな表情をして、淡々《たんたん》と話し始めた。
      「ここから先は、僕個人の体験を語ろう……。僕は薬を飲んだ。飲んだ次の日の朝、目が覚めると『分かる?分かる?』と頭に何か飛び込んできた。部屋には誰《だれ》もいない。驚いたよ、本当に離れたところにいる人間からメッセージが届いたんだ。それは、もちろん『分かる?』って言葉で頭に伝わった訳じゃない。僕自身が『分かる?』と思っているような感じがしたんだ。とっさに『分かるよ!』と思ったら、『私にも分かるわ! 凄《すご》い!』と感じが返ってきた。『玄関《げんかん》にいるの』と伝わったので、あわてて外に出てみると、僕のその時の恋人が立っていた。テレパシー能力の開花は成功したんだ。僕と彼女は嬉《うれ》しくて嬉しくて、何度もお互いを思い合って、『愛してる』を伝え合った。今思い出すと笑っちゃうけれどね」
      男はそこで一旦《いったん》話すのを止《や》めて、ふーっと息を吐いた。
      「僕達は世界で一番幸せだと思った……。その時はね。そのまま一緒に暮らし始めて、それから数日が過ぎた。そして……ある時、僕は彼女がハーブに水をやっていて、そしてあげすぎてしまったのを目撃《もくげき》した。そして思った。『あれ? この間注意したのに。何度言ったら分かるんだろうなあ?』ってね。それと同時に『違うよー』って穏《おだ》やかに言おうとしたんだ。でも、それを言う前に、彼女は僕を睨《にら》んでいた。そして頭の中に直接返答が届いた。『なによ! 何度言ったらって?私のことバカだと思ってるのかしら!』」
      「…………」
      「そう、彼女に伝わってしまったんだ。伝えたくないことがね。彼女のいきなりの返事に僕はとまどって、『一体《いったい》なんなんだ? なんでそんなことで、こんなに怒られなきゃならないんだ?』と思ってしまった。すると、『そんなこと? そんなことですって?私にとってはとても重要なことが、やっぱりあなたにとってはそんなことなのね!』そう返事が来た」
      男の顔に、今度はほんの少し笑《え》みが浮かんだ。それは、自嘲《じちょう》するような笑い方だった。
      「その後は、ひたすらテレパシーでケンカさ。実はね、彼女は僕に対して、学歴|面《めん》、そして頭脳面での劣等感を常に持っていたんだ。僕は長年つき合っていて、そのことにまったく気がついていなかったのさ……。当然、彼女が僕はそれに気づいてるんだろうと思ってることも、気づいてなかった。彼女は、『あんたみたいなエリートぶった冷血《れいけつ》人間と、一緒になんていられないわ!』と捨て思い[#「捨て思い」に傍点]を残して、出て行ってしまった。僕はボーゼンと取り残されて突っ立っていた……。とんでもない笑い話さ。お互いの心の内をストレートに伝え合うことができたから、もう取り返しのつかないほど仲が悪くなってしまった。でも僕らは笑い話ですんでまだよかったんだ……。同じ頃《ころ》に、とある場所では一人の人間が事故で死にかけた。その人間が今際《いまわ》のきわに思っていることが、あわてて駆けつけた人達に伝わって、彼らを発狂させてしまった。別のところでは、今まで手を組んでいた二人の政治家が、じつは互いに相手をいつか裏切ってやろうと思っていたのがばれて、議会で殺し合いを始めた。決着がつかないで、そしてお互いに痛くなって止めたけどね。学校では、みんなが答えを教え合うのでテストが成り立たなくなっていた。ああ、そういえば若い女性に近づいただけで、婦女暴行|未遂《みすい》と猥褒物陳列《わいせつぶつちんれつ》で訴えられた奴《やつ》もいたな」
      「…………」
      「まあ、そんなようなことがあちらこちらで起こったんだろうな。一週間ほどは、国中パニック状態だった」
      「それから、どうなりました?」
      キノが聞いた。男はそれに素直に答えるように、
      「それから、僕達は自分や他人の考えが分かるということの恐ろしさに、ようやく気がついた。自分の思うこと。他人の思うこと。それが全《すべ》て筒抜《つつぬ》け状態なんて、進化でもなんでもなかったんだよ。まあ、そのことに気がついたのは進化だったかもしれないけどね……。いいや、ただの進歩かな? 『他人の痛みが分かればその人に優しくできる。もっと人はお互いを尊敬し合える』なんて、とんでもない大嘘《おおうそ》だった。自分が痛くない時に、痛みが伝わってしまうなんてことは、結局|損《そん》以外の何物でもないんだ。別にそれで最初の持ち主の痛みが消えるわけではないしね。……この混乱の解決方法は、たった一つだけだった。それは他人と離れること。数十メートル離れれば、遠くの音が聞こえなくなるように、思いも伝わらなくなる……」
      「なるほど、そういう訳かあ」
      エルメスが心底《しんそこ》感心した様子《ようす》で言った。
      「そういう訳さ。つまりこの国の人間は全員、本当に本物の、想像ではないピュアな対人《たいじん》恐怖症になってしまったんだ。でもその後、そのおかげで機械がさらに発達して、この国ではそれでも生活できるようになってしまった。だからみんな、今でも森の中の離れた家で一人で生きているんだ。自分だけの空間で、自分だけが楽しいことをして……。この国では、もう十年近く子供が生まれていない。だからそのうちに滅びるだろうね。でもそれは僕が死んだ後だから、気にしても仕方がないけれど」
      男は立ち上がると、後ろにある機械のスイッチを入れた。音楽が流れ出した。それは電子フィドルが奏《かな》でる、穏《おだ》やかな曲だった。
      キノはしばらく聴いて、
      「すてきな曲ですね」
      それを聞いた男は、ほんの少し微笑《ほほえ》んで、
      「僕はこの曲が大好きだ。十数年前にこの国で流行《はや》った曲だけどね。これを聴いて、僕はいつもとても感動してしまうけれど、そんな時思うんだ。『他《ほか》の人はこの曲を聴いた時に、自分と同じように感動するのだろうか?』ってね。昔は恋人と一緒に聴いた。彼女もいい曲だって言ってくれたけれど、本当のところ、彼女はどう思っていたんだろう? そして今の君、キノさんはどう感じているんだろうね……。でも、その答えは知りたくはない」
      そう言って、目を閉じた。
      しばらくして曲は終わった。

      「じゃあ、キノさん。パースエイダー有段者の君に言うことじゃないかもしれないけれど、道中《どうちゅう》気をつけて」
      家のガレージの前で男が言った。キノは帽子をかぶりゴーグルをはめて、エルメスはエンジンをアイドリングしていた。騒々しい排気音が響《ひび》いている。
      「そんなことはないですよ。気をつけます」
      「エルメス君も」
      「ありがと」
      「君達と話ができて、とても楽しかった。できれば最初の日に会いたかったけれど……、それは仕方ないね」
      男はそう言って、肩をすくめて微笑《ほほえ》んだ。
      「お茶、ごちそうさまでした。おいしかったです」
      キノはそう言ってエルメスに跨《またが》った。前に体重をかけて、スタンドを外した。
      そして、エルメスを発進しょうとしてギアを入れた。
      その時、
      「あ! あの! ちょっと、いいかな。もう一つだけ言いたいことがあるんだ」
      男があわてて言った。キノはエルメスのエンジンを止めた。辺《あた》りはすっ、と静かになった。
      男はキノとエルメスにもう一歩近づくと、一度|深《しん》呼吸をして、
      「あ、あのっ! もしよかったら、し、しばらくここで一緒に暮らさないかい? ここは安全だし、人に会えないことを除いたら、とっても居心地《いごこち》がいい。落ち着いて自分の好きなことができるよ。エルメス君も、どうかな? この町を拠点《きょてん》にして旅をしてもいいし。その、もし、キノさんさえよければ、僕と……」
      キノはしばらく、いきなりそれだけを言い放った男をじっと見た。
      そして、軽く首を振って、
      「申し訳ないんですが……。ボクは旅を続けたいと思います」
      キノがそう言うと、男は焦りながら、
      「そ、そうか……。いやっ、その、変なこと言ってわ、わるかった。いや、あ、その……」
      しどろもどろになった。彼の顔は真っ赤だった。
      キノは黙ってエルメスのエンジンをかけた。
      男の顔を見た。顔を上げた男と目があって、キノは微笑んだ。
      それを見た男は驚《おどろ》いて、やがて彼も照れたように微笑んだ。
      男は軽く右手を振った。
      キノは微笑んだまま軽く首を傾《かし》げた。
      それから前を向いて、エルメスを発進させた。
      モトラドが走り去っていくのを見ながら、男は思った。

      国を出てからしばらく、ぼんやりとした草原の道をキノとエルメスは走っていた。だいぶ傾いた太陽が、そろそろキノの視野に入りかけている。
      「キノぉ。最後にあの人としばらく見つめ合っていたじゃん」
      エルメスが突然聞いた。
      「ん? ああ」
      「ラブラブだったのかい?」
      「はあ? なんだいそれ?」
      エルメスのからかうような言い方に、キノが呆《あき》れ顔で返事をした。
      「あの男の人と結婚するんじゃないかと、端《はし》で見ていてハラハラだったよ」
      エルメスが今度は真剣な口調でそう言うと、キノは笑いながら。
      「そんなことはないよ」
      「ならいいけど」
      エルメスはそう言って、しばらく黙った。
      それから、こうつぶやいた。
      「それにしても、キノに惚《ほ》れるなんて。なんて変わったシュミのお方だ」
      モトラドは草原の道を走っていく。
      しばらくしてから、ふと思い出すようにキノが言った。
      「あの人は最後にボクを見て、『死なないでね』って思ってくれたような気がするよ」
      「ふーん。それで?」
      「だから、ボクは『ありがとう』って返事をしたのさ」
      キノはそう言って、くすっと笑った。
      「なるほど。でもそれ、向こうにきちんと伝わったかな」
      エルメスが聞くと、キノは微笑《ほほえ》んだまま、きっぱりとこう答えた。
      「さあね」

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